青梅橋跡        (おうめばしあと)

青梅橋跡        (おうめばしあと)
     文 素っ頓狂
 「全然ワカンナイ」
 「あるわけ無いじゃん。川
 なんか一っもないよ」
「だって、東大和市駅の近
 くだって云ったよ」
 東大和市駅の北口、子供
さん達が困っています。何
を探しているのか聞いた
ら、「青梅橋」の跡だと
いうことです。
 こっちの方がわかりいい
からと、南口から案内しま
す。目の前の小広場、ここ
に野火止用水が流れていま
した。左に曲がり青梅街道
に出ます。横断歩道があり
ます。このあたりに、青梅
橋が架かっていました。 (か)
 承応三年(一六五四)、江(じょうおう)
戸の人口増・飲み水対策に
玉川上水がつくられました。
工事の指揮を川越地方を治
めていた松平伊豆守信綱が(まつだいらいずのかみのぶつな)
とりました。完成の褒美に(ほうび)
分水の権利を得ます。翌年、(ぶんすい)
伊豆守は水脈のない野火止
地域へと用水を開削しまし(かいさく)
た。野火止用水・伊豆殿堀(いずどのぼり)
です。
 狭山丘陵から武蔵府中に
通ずる道と青梅成木から江(おうめなりき)
戸に石灰を運ぶ道(ヤオコ
ーとヨーカドーの間を通る
現・桜街道)が用水と交差
しました。そこに架けられ
たのが青梅橋です。
 東大和の村の人々はこの
を待っていたかのように、
武蔵野の原野を開墾しました。(かいこん)
早くも、一六○○年代末に
は「用水際」の地名が現れ(ようすいぎわ)
ます。その到達点が青梅橋
でした。しかし、一滴の水
の利用も許されませんでし
た。懸命な苦しい歴史の詰(けんめい)
まった場所です。すっかり
変わり、大きな案内板があ
るといいですね。

図へのキャプション
西武拝島線東大和市駅からの青梅橋跡

西武拝島線東大和市駅からの青梅橋跡



青梅橋跡

     文 素っ頓狂

 「全然ワカンナイ」
 「あるわけ無いじゃん。川なんか一っもないよ」
「だって、東大和市駅の近くだって云ったよ」

東大和市駅の北口で、子供さん達がリーダを囲んで困っています。
何を探しているのか聞いたら、「青梅橋」の跡だということです。

 こっちの方がわかりいいよと、南口から案内します。目の前の広場、かっては、ここに野火止用水が流れていました。左に曲がり青梅街道に出ます。横断歩道があります。このあたりに、青梅橋が架かっていました。
 承応3年(1654)、江戸の人口増に飲み水が必要になり、玉川上水がつくられました。工事の指揮を川越地方を治めていた松平伊豆守信綱がとりました。完成の褒美に分水の権利を得ます。翌年、伊豆守は水脈のない野火止地域へと用水を開削しました。そこから、伊豆殿堀とも呼ばれます。
 狭山丘陵から武蔵府中に通ずる道と青梅成木から江戸に石灰を運ぶ道(ヤオコーとヨーカドーの間を通る現・桜街道)が通っていて、野火止用水と交差しました。そこに架けられたのが青梅橋でした。

 東大和の村の人々は用水が開削されると、待っていたかのように、武蔵野の原野を開墾しました。早くも、1600年代末には「用水際」の地名が現れてきます。その到達点が青梅橋でした。しかし、一滴の水の利用も許されませんでした。懸命な苦しい歴史の詰まった場所です。大きな案内板があるといいですね。